旅(2009夏)の雑感

今回は紛争地域であるアフガニスタン、パキスタン北西部への撮影旅行であったため、持参した自転車の出番も少なく、都市間移動で用いたのはアフガニスタンで5回(述べ7日間)、パキスタンで3回(5日間)のみでした。その他は、主に乗合バスでの移動を余儀なくされました。


■日程
・ 6/8 - 6/27 パキスタン
(主な訪問都市:Rawal Pindi,Peshawar )
・ 6/27 - 8/5 アフガニスタン
(主な訪問州Kabul,Balkh,Jowzjan,Kondoz,Takhar,Badakhshan,Baghlan,Panjshir,Parvan )
・ 8/6 - 9/7 パキスタン
(主な訪問地域:Kalash )


■アフガニスタン
いわゆる宿がないため、食堂や警察署に泊まることになりました。外国人への抵抗感も根強く、街から外れると地元の子供から石を投げられる日々でした。
しかし、ニュースで見られるような(先日の大統領選や「9.11」の8周忌でアフガンの映像を見る機会もあったかと思いますが)戦闘地域はごくごく一部で多くの人は目の前の暮らしに一喜一憂し、そして淡々と日々を送っているのです。
私も(十分な注意を払いつつも)いつもと同じスタイルです。街を歩き、自転車に乗り、出会った人と話して、そのうち何人かを撮らせてもらう。さらに、そのうち何人かは、出会ったばかりの私に笑顔をくれる。

それでも、好奇心を満たすだけの旅行をする場所ではない、ことをあらためて強調しておきたいと思います。実際に危険な連中が多いのも確かです。ライフル銃を向けられることも、大金を失うこともありました。身に着けているもの(ズボン、シャツ、メガネ、カメラバック、カメラ・・・)の傷み具合を見ても尋常ではありませんでした。州都ではかなりの数の欧米人が活動しているはずですが、街を歩いていて見かけることはほぼ皆無でした。


■パキスタン
北西部の谷に暮らしているKALASHという少数民族、とりわけ女性ばかりを主に撮っていました。あきらかに長らくイスラム社会で過ごした反動ですね。
帰国前に病気になってしまい、わだ晶子さん(20年に渡って現地に住み、NGO活動をされている方)には大変お世話になりました。

Posted at 2009/09/13 15:01 | 雑記 | COM(2) | TB(0) |

旅(2010春)の雑感

2009年の夏に行ったパキスタン・アフガニスタンを再び訪れた。とくにパキスタンのペシャワール旧市街(前回も2週間滞在)に居座り、人々の暮らしをじっくりと見つめようと思っていた。アフガンでは(前回訪れなかった)治安の悪い南部、西部へ行くつもりだった。こうした理由で今回は自転車を持参せず、フツーの旅のスタイルになった。

とにかく、「未知の新たな地域へ行きたい」という気持ちを抑え、再訪問という慣れない滞在型の旅にした。それが吉か凶かは今でも分からない。再訪問だと新鮮味は少なく、実際に写真の枚数は随分と減った気がする。(午後に天候が崩れる日が多かったのも一因。) 一方で、やはり時間をかけることで新たに気付くことも少なくなかった。

■日程
・ 3/1 - 3/16 パキスタン
(主な訪問地:Karachi,Khuzdar,Quetta )
・ 3/16 - 3/20 アフガニスタン
(主な訪問地:Kandahar,Kabul )
・ 3/20 - 3/23 アラブ首長国連邦(UAE)
(主な訪問地:Dubai )
・ 3/23 - 4/27 パキスタン
(主な訪問地域:Peshawar,Karachi )


■パキスタン・バロチスタン州
前回訪れなかった地域のうち、もっとも気になっていたバロチスタン州。バローチ人の土地であるが、州都クエッタ(Quetta)もある北部にはパシュトゥン人が多い。クエッタは交通の要衝であり、(パキスタン全体で旅行者が激減している昨今でも)長距離旅行者が立ち寄る土地だ。([イラン]~ クエッタ ~ ラホール ~ [インド])
同じく部族社会が色濃いパシュトゥン人(主に北西辺境州)と比べると、バローチ人は、反政府(反パンジャブ人)の意識が高い。パシュトゥン人は商売に長け、今ではパキスタン全土に広がっていて他民族とも器用に付き合う。一方のバローチ人には、同州の豊富な天然資源を政府に搾取されているという意識が強い。パンジャブ人(パキスタンの過半数を占める民族)による支配からの独立を目標とする反政府活動がとても盛んである。Khuzdarでは、パンジャブ人はとても住める環境ではない。地元人にパンジャブ人が殺される事件が後を絶たない。私の滞在中にも起きた(関連記事)。州都クエッタでさえ、テロが目立ってきている。タリバンの潜伏地にもなっているようだし、バロチスタン州は今後、悪い意味で注目を集めることになる気がした。

※北西辺境州(NWFP)は2010年4月に「Khyber Pakhtunkhwa」という州名に変更されました。


■アフガニスタン
パキスタン南西部のバロチスタン州からカンダハルへ陸路で入国。が、治安状況が悪いため、警察・大使館経由で出国させられた。わずか5日間の滞在となった。(自由行動できたのは2日間のみ。)
カンダハルはタリバンの本拠地だった地域であり、戦闘シーンのニュース映像以外は殆ど目にすることはなかった。とはいえ、やはり街では人々の平穏な暮らしがあるのである。私が入った前日には8カ所でテロ事件が起きたのだが(関連記事)、市井はとても落ち着いているように思えた。現地人と同じ服を着ていた私は、話しかけたり、カメラを出したりしない限り外国人とは思われなかった。(モンゴロイドの顔つきである現地のハザラ人だと間違われる。) 日本人の訪問者とわかると、親切にしてくれる人が多い一方、今までに無い、怪訝な厳しい目線をくれる人も少なからずいた。(冗談っぽく)「彼はタリバンだ」(または「タリバンだった」)なんて言って知人を紹介されても、後者だと本気で不安になった。容姿がタリバンと同じ人などは山ほどいる。(もちろん本来の意味でタリバン=神学生の人も多い。)

前回訪問したアフガン北部は非パシュトゥン人地域。民族の対立してきた経緯からもタリバン(パシュトゥン人が主体)を嫌悪するのは当然であった。一方、カンダハルはパシュトゥン人の中心地でもあり、タリバンを擁護する声も聞かれた。それでも、街に住む人々は多国籍軍・国軍が治安を維持している現状も実感している。「全てのタリバン(テロリスト)はインドやアメリカの秘密組織だ」と信じて疑わない人は、パキスタン側のパシュトゥン人の方が多い印象であった。(私は決して全否定はしないが、テロリストの多くはムスリムの過激派だと捉えている。)
(アフガン全体でも多数派である)パシュトゥン人と(カンダハル市街地にも2割程度いる)非パシュトゥン人との民族間の対立は相変わらず強く感じた。私には見た目では区別がつかないのだが、パシュトゥン人の悪態をつくダジク人を何人も見かけた。北部よりも圧倒的に人口比に差が出る南部(カンダハル)の方が、少数派(非パシュトゥン人)の反パシュトゥン感情は強いのかもしれない。
(以上は、あくまで短期滞在しただけの私の印象である。)

関連記事「アフガニスタン2009/6- 基本情報」(前回、北部を訪問したときの印象など)


■パキスタン・ペシャワール
後半はペシャワールに終始した。1ヵ月も同じ宿に居たことは今までになかっただろう。前回に親しくなった、信頼できる友人が数名いて、毎日のように通う場所が3、4箇所あった。人から見聞きしたことの事実関係(語学が不十分で「本当か?」と思うことも多かったのだ)を彼らに確認することができたし、遠出をするのに自転車を貸してくれたりもした。(偶然も含めて)再会した人は30人以上になった。私にとっては実に居心地の良い街なのである。
治安は、現地入りした3月下旬には「この2ヶ月テロが無く、改善された」と言われていたが、4/5に新市街で米国領事館付近で連続爆発事件、4/19には新市街の警察学校での爆発事件および旧市街の繁華街での無差別自爆テロがあった(関連記事)。とくに後者は、ほぼ毎日通っていた馴染みの場所で、知っている子供も亡くなり、はじめて本当にテロを身近に感じた。

部族地域からの出稼ぎ労働者、クリスチャン、働く子供たちは時間をかけて見ることができた。一方、最も驚いたことの一つは、携帯電話の普及でイスラムでは厳禁である婚前交際・不倫などが増えたことなのだが、結局、こうした女性に直に話を聞くことはできなかったのは残念であった。(パシュトゥン社会ではイスラムに輪を掛けて戒律が厳しい。不倫は、未だに殺されるのが当然なのだそうだ。都市部では離婚・金銭的解決で済むとも聞いた。)

前回のアフガンほどではないが、子供たちからのイタズラには相変わらず手を焼いた。大人が居ない場所で子供たちが集まると、私へのイタズラがエスカレートする。いつもの投石に加えて、(私のそばにいる子を他の子が突き飛ばしての)体当たりをされたり、生ゴミをぶっかけられたり。特に怖かったのが爆竹。見た目は煙草くらいだが、6、7cmの火花が出る。これを足元に転がされるうちは音にビビッていれば良いのだが、しまいに投げられたことがあった。見事に胸元で爆発し、左手に軽い火傷を負い、服に小さな穴が開いた(写真)。この日以来、爆竹のイタズラが本気で怖くなった。
(その翌日4/19に前述のテロが身近で起き、爆竹なんぞは、笑い話になってしまった。)


最後に、もう一つの大きな目的であったフレンドリーポストカードの人物への手紙渡しは、3組全員に再会することができた。(手紙渡し関連記事「青い服の少女」「微笑む男の子」「少年工」) 手紙を書いて頂いた方々には本当に感謝したい。

(彼らを含め、再会した子供たちは10ヶ月で随分と成長し、感慨深かった。「野菜売り」の少年は、完全に青年へと印象が変わり、もう無邪気な笑顔は見せてくれなかった。写真は一期一会だとあらためて思わされた。)


Posted at 2010/05/03 01:07 | 雑記 | COM(0) | TB(0) |

旅(2010夏)の雑感

帰国後、時間が経ってしまいましたが、今夏のインド旅についての報告。
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 2008冬に続いてのインド自転車旅行。一般に人々の衣服や暮らしぶりを見れば、生活水準が良くなっている気がした。(前回訪問地の方が貧しい地域だっただけかもしれない。) 田舎では相変わらず外国人は珍しく、東洋人の顔は「ネパーリ」(ネパール人)だと間違われる。一方で、(日本人だと知った上で)「インドはグレートか?」と自信ありげに訊いてくる人も目立った。

■暑さ、そして雨...
 雨期ということで行き先は西部の乾燥地帯を目指した。さすがに日差しが強く、帽子(ハット)を被っていたのに1日目で鼻の皮が剥けるほど日焼けをした。(2日目以降は長袖を着用し、大きな街に行った際に日焼け止めクリームも購入した。) 大量の水分補給には現地の水も気にせずに飲まざるを得なかった。
 一方で冠水した道路もいくつか出くわした。(この点、実は自転車は強い。バイクや乗用車が動けない深さでも、自転車は押して歩くだけ。)地域によるが夕方などに豪雨に見舞われることが多かった。涼しくなるので地元人と同じく、私も歓迎したいのだが、写真が撮りづらくなる。突然の豪雨には、雨宿りできる建物や木が周り無ければ、持参したブルーシートを被ってしのいだ。とにかく晴れても雨でも自転車旅行はキツかった。

■テント暮らしの人々
 そんな中、私が興味を持ったのは、テント暮らしの人たちだった。期間労働者、遊牧民(レバリなど)、鍛冶職人(ガドゥリア・ロハール)などの非定住・半定住の人々である。遊牧民については、一般に雨期は遊牧せずに自分の村に戻っているのだが、遊牧中の姿も見ることができた。非定住の人々は、政府の意向もあり定住化が進んでいる。カーストで職業が固定されている上に教育を受けていない彼らは、結局、農場や建設現場の労働者となることが多いようだ。


■日程
・ 7/20 - 7/28 首都デリー、ハリヤナ(Haryana)州
(主な訪問地:Delhi,Rewari,Narnaul)
・ 7/28 - 8/12 ラジャスタン(Rajasthan)州
(主な訪問地:Chirawa,Jhunjhunun,Churu,Bikaner,Phalodi,Jodhpur,Falna )
・ 8/12 - 8/24 MP(Madhya Pradesh)州
(主な訪問地:Ratlam,Jaora,Alote,Agar,Sarangpur,Shajapur)


Posted at 2010/09/15 23:40 | 雑記 | COM(0) | TB(0) |

旅(2010冬)の雑感

■7年ぶりのエチオピア
 ちょうど7年ぶりに訪れたエチオピア。修士3年生(半年休学)だった当時は、とくに北部の岩窟教会に興味があった。ラリベラ(Lalibela)でのエチオピア正教のクリスマスのほか、南部の裸族など、観光として充実した思い出がある。(一方で、南京虫に体中がボコボコになった記憶も・・・。この「エチオピア2003」はポジフィルム撮影ですが、スキャンしたものがあるので、先立って公開します。)
 2003年は旱魃で食料配給も行われており、貧しい国という印象が際立っていた。現在では、幹線道路の舗装化がかなり進み、携帯電話の使用範囲が日々広げられている状況だ。(やはり中国パワーが絶大。)
 当時から、エチオピアはアフリカの中でも観光資源が豊富で旅行者にとても人気がある国だ。貴重な収入源として、観光地化が進むのも当然の流れかもしれない。


■南スーダンとの隣接地域
 今回は、およそエチオピアらしくない西部ガンベラ(Gambela)州に滞在していた。ここは以前、スーダン領でもあった地域で、現在でも南部スーダンの関わりが深い土地だ。長年の民族移動のほか1980年代ごろからは難民も流入し(2006年以降多くの難民は帰還)、現在でも、元スーダン人であるヌエル(Nuer)人が住民の多数派を占めている。もちろん、南部スーダンの独立投票が1月9日から始まることを意識して、元難民などに話を聞いて回っていた。
 スーダンの北部政府(イスラム教徒中心)と南部(キリスト教徒中心)との対立になぞらえ、「日本はイスラム教徒側か?キリスト教徒側か?どっちの味方だ?」と問いただされることもあった。
 ガンベラ州では、圧倒的にキリスト教徒が多く(南スーダン人は主にプロテスタント、アビシャン(=アビシニア人。ここでは黒人・スーダン人に対してエチオピア人(エチオピア高原の各民族の総称)として使われていた)は主にエチオピア正教)、南部スーダンの独立を待ち望んでいる。(エチオピア全体では、エチオピア正教50%に次いでイスラム教が30%と多い。)
 実際には、「独立後にすぐに故郷に戻る」という人よりも、(南部スーダンでは教育システムが十分でないので)学業を終えるまではエチオピア側で過ごす若者が多かった。


■写真ぎらいな人々
 アビシャン(エチオピア人)も含め、ヌエル人など黒人(スーダン人)も写真に撮られるのを好まず、歯がゆい思いを随分とした。せっかく長い間一緒に話して親しくなっても「写真は撮らないで」と言う人、そして、市場などで売られている物に対しても「金をくれなきゃ、撮ったらダメだ。」と冷たく言い放つ商売人が実に多いのだ。
 そもそもPignudoという町では、首長から直接、村での写真はもちろん市場の写真すら全て撮影禁止と言い渡された。「撮ってくれ」という人々の写真も、宿の従業員でさえ一切ダメだと言うのだ。(この町には難民キャンプがあり、特殊な事情があるのだが、それにしても驚いた。)

 こうした事情とは別に、写真に不慣れで、カメラを向けられた途端に固まってしまう人も多かった。(IDカード用の証明写真しか撮られたことがないのかもしれない。。。) しかも本当に1枚しか撮らせてくれなかったり・・・。

 今回の写真のほとんどは、相手にカメラをあまり意識させないようにノーファインダー(カメラのファインダーを覗かずに撮ること)で撮っている。細かい構図は決められないが、(カメラから顔を出して)相手と話しながら表情を追っかけて撮れるのが利点だ。(普段から、わりとノーファインダーでも撮るが、今回は尋常でなかった。)
 こうした状況なので、いつも以上に1枚1枚の重みを感じて撮影した。(フィルム撮影時には常にあったのかもしれない・・・。)


■病気などのトラブル
 エチオピア入りした翌日から2日かけてガンベラに到着。その日の夕方、いきなりグーで殴られた。精神異常者らしいが、ひと言ふた言の会話後に不意に顔面を強打され、鼻血ブーだ。警察沙汰にもなった。(数日間、鼻が痛かったが、幸い怪我はなかった。) 写真を撮るどころか、カメラを出す前のトラブルにまさに出鼻をくじかれた。

 エチオピア高原は朝晩は冷えるのだが、滞在したガンベラ州は低地で暑い。マラリアも多い。一般に地元の人も蚊帳の中で寝る。今回は節目節目で体調を崩し、エチオピア正教の行事(クリスマス、ティムカット祭)にはあまり触れられず、結果的にエチオピアにいるスーダン人の生活を見るのに専念することとなった。一般にアフリカにおいては、黒人と白人の間の褐色肌のアビシャン(エチオピア人)が特殊なのだろうが、私にとっては、エチオピアにいるナイル系の黒人たちの方が興味深かった。(順調に行けば、南部スーダンは今年7月に独立する。そうしたら「皆で踊って祝うよ」と言っていたヌエル人たち。すぐに帰国せずとも彼らの生活の大きな節目になることは間違いなさそうだ。)


■中流家庭
 最後に、一番に嬉しかったことは、7年前にお世話になった後(一度手紙を送ったきり)音信不通であった現地人の親友に再会できたことだ。(首都アジス・アベバ(Addis Ababa)で、当時の写真の風景と記憶を頼りに、彼の実家を再訪問できたのだ!) 首都に滞在した初日と最後にお世話になり、とくに帰国前にマラリアになっていた私の面倒をよく看てくれた。
 彼は、自動車整備工で1日12時間も働いて、月収はようやく5,000~6,000円。過労ぎみだが家族を養うために必要なのだそうだ。

 アジス・アベバでの中流階級の平均収入は3,000~4,000円程度。養育費がかかるため、一般に子供の数は1~2人が多いそうだ。単純労働者の月収は1,500円程度だ。安い食堂で1食70~100円。コカコーラ1瓶が約35円。一般市民は物価上昇についていくのが精一杯だと言っていた。一方、(地方では未だ殆どないが)自家用車(主に100~200万円の中古日本車)も目立つようになった。経済発展中のエチオピアでも貧富の差は広がっているようだ。



■日程
・ 12/22 - 1/21 エチオピア
(主な訪問都市:Addis Ababa,Gambela,Itang,Pignudo )




Posted at 2011/01/29 00:00 | 雑記 | COM(2) | TB(0) |

旅(2011夏)の雑感 ~ 南スーダン

■世界一(?)未発展の国
 今回はウガンダから陸路で南スーダンに入っていた。今年の7月9日に独立したばかりの新しい国である。スーダン(北)との隣接地域は治安が悪く、湿地帯の東部は空路や水路でしか入れない。結局、私は完全に国の統治下にある南部の州を中心に滞在するしかなかった。つまり、比較的アクセスしやすい地域に居たことになるのだが、それでも噂以上にインフラが未発達で驚かされた。アフガン以下だと思う。首都のJubaさえ、幹線道路の一部を除けば未舗装で、州都レベルでは(街ではなく)大きな村という印象だった。首都や州都を結ぶ道路は当然未舗装で、雨季には不通またはランドクルーザーしか通れなかったりする。そのため、陸路の交通費(ランドクルーザー中心)は日本以上に高いくらいで、飛行機を使うのとあまり変わらない。お金のない庶民は何十キロも歩いて移動する。

 産業が極端に乏しく、食料もウガンダやケニア、スーダン(北)など隣国からの輸入に頼りがちだ。主に品物はJubaに集まってから地方に輸送されるため、価格は首都Jubaより地方の方が高い。例えばミネラルウォーターのペットボトルなどは2倍もした。




■外国人労働者の集まる国
 物価が高い分、高給でもあり、首都や州都では周辺国からの出稼ぎ労働者が溢れている。ウガンダ、ケニア、スーダン(北)、エチオピア、中央アフリカ、コンゴ、ルワンダ、ソマリア、エリトリア・・・。出会った人だけでこれだけいる。ウガンダ人、ケニア人が多かった。建設ラッシュでもあり、建設工事の単純労働者も多いが、食堂や市場で店を構えて商売をする者が目立った。建設労働者の賃金はウガンダの5倍にもなるそうで、大学生も夏休みを利用して稼ぎに来ていた。

 外国人労働者と言えば、アジアから日本へ、イスラム国からドバイへ、という風に(一言でいえば)貧しい国から豊かな国へ出稼ぎに行くという印象が強かった。しかし、南スーダンではそれが逆転していて面白い。ウガンダにしろ、ケニアにしろ、南スーダンよりもずっと発達した国々から来ているので、「スーダンは汚い」「生活習慣が野蛮だ」などと見下している人も見られた。(これは田舎の人も多い州都などで聞かれた話で、Jubaでは当てはまらないと思われる。)

■牛とともに生きるディンカ(Dinka)族
 前回のエチオピアのガンベラ(Gambela)州にいたヌエル(Nuer)族(もともとスーダンから移動してきた人々)も同様だが、ディンカ族の牛を中心にした生活にとても魅力を感じた。ディンカ族は南スーダンの最大の部族で、東部や北部の州に多い。農業と放牧を営んでいる。私が訪れたキャトル・キャンプは大きいものではなかったが、それでも数千頭の牛の群れは圧巻であった。彼らは、貴重な生活水である牛の尿で手や食器を洗うし、日頃から灰を体中に塗って暮らす者も少なくない。そんな牛飼いの若者たちも、昼間は学校に通う者も多い。携帯電話を持つ者もいる。
 交通インフラが整えば、町に出て進学する者はさらに増えていくだろう。それでも若者もディンカの文化に高い誇りを持っており、週に数回も行われる、踊りやレスリングの娯楽・行事も若手が中心だった。これらは、農村では今後も受け継がれていくのではないかと期待させた。

 農村では、今でも部族間の争い(主に牛の奪い合い)がある地域も多く、牛飼いはライフルを持参する。田舎では一般人が銃を持ち歩く姿は一般的だった。





■教育を受けていない人々
 内戦当時、親とはぐれて避難した子供たち(ロストボーイズ)が国外の難民キャンプなどで教育を受け、自国に戻ってくる話などは、旅立つ前から知っていた。実際にキャンプで教育を受けられた人はマシなのかもしれない。私が出会った地域では、10代でも20代でも、小学校の4、5年生に在籍する者が目立った。その前までは長い内戦で学校に通えなかったそうだ。
 現地人は、他部族とは主にアラビア語で会話をする。スーダンの国語であり、英語よりは遥かに浸透している。町では周辺国からの外国人も多く、英語もかなり一般的に使われていた。地元の食堂もウガンダ人などの経営が多いため、地元人でも逐一、定食のメニューや値段を(当たり前のようにカタコトの英語で)尋ねている姿は何か滑稽だった。一見、私からすると同じような顔をしたアフリカ人の田舎の村に過ぎないのだが、実は様々なエスニック集団が入り混じる多国籍社会なのだ。

 警察官の教育レベルもまちまちで、理由も分からぬまま警察に拘束されることもあった。ひどい時には「お前は(白人だから)お金をたくさん持っているはずだ。だから逮捕だ」「カメラを持っているから逮捕だ」と監禁される。結局、英語を話せる上官に連絡を取ってもらい、電話で直接説明すると「南スーダンへようこそ!」と言ってくれ、解放されることになる。賄賂を要求されたことは一度だけあった。

■Jubaの病院
 毎度ながら、今回も旅の終わりに病気になった。しかし旅行とはあまり関係のない尿路結石というものだ。南スーダンの病院では全く理解されなかったが、実は以前にもなったことがあるため、自分で判断して対処した。あまりの激痛のため入院までしたが、国で最大らしいJuba (Teaching) Hospital でも医療用品が足りないらしく、体温計もないのか医師が手を額に当てて熱の有無を確かめ、注射器から点滴用品、すべての薬を自分で薬局で買って持ち込むしかなかった。当然、カルテ等は医師の手書き。患者は多く、とても忙しい中、実に大変そうであった。
 一日に1、2回、痛みが出たが、Jubaではダメだと、数日早めてKampala(ウガンダの首都)に移動した。そして、着いた直後にUSドルをすべて失う盗難に遭う。今までの旅で経験のない大失態である。(目撃者があり犯人グループの一人が逮捕されたがお金は戻ってこなかった。事件の捜査が進行中のまま、私は帰国した。)


■日程
・ 7/25 - 8/25 南スーダン、ウガンダ
(主な訪問都市:Juba,Bor,Yambio,Kampala )




Posted at 2011/09/02 12:00 | 雑記 | COM(4) | TB(0) |