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2011/4/10 岩沼市(1)~泥かきボランティア

4月9日~14日(現地滞在5日間)、宮城県の被災地へ1人で赴いた。(カメラマンとしてではなく、1ボランティアとしての活動なので、あまり写真も撮っていない。)
 出発時の情報では、個人の県外ボランティアを受け入れているのは、宮城県岩沼市、亘理町などに限られていた。両方に問い合わせて、よりニーズがありそうな岩沼市に入った。(現在は、他の市町村でも続々と受け入れている。)

 岩沼市は仙台市から南へ20kmで人口4.4万人。農業がさかんである一方、仙台のベッドタウンでもあるそうだ。滞在中、朝方に雪が降った日もあったが、昼間はかなり暖かかった。4/18朝日新聞によると169人が死亡、約20が行方不明、約530人が避難となっている。
 この辺りは、常磐自動車道(仙台東部有料道路)の盛り土が防波堤となり、多くの市街地を津波から救ったと評価されているが、現地の方からも「もともと高架で建てる計画もあったが、津波を想定して盛り土にした」という話を聞いた。
 私は自家用車の車中と名取市のネットカフェで寝泊まりした。食料はパンなど持参したものを食べるようにしたが、すでに多くの店が通常営業をしており、チェーン店の牛丼屋やラーメン屋、回転寿司まで揃っていた。コンビニなどの店で、場所によって品薄と感じたのはミネラルウォーターや乾電池くらいだ。他に出会った県外ボランティアたちは、若者は車中やテント泊、年配者は仙台などでビジネスホテルやカプセルホテルに泊まっている人もいた。(私の車中泊の難点はシャワーを浴びれない点だったが、アフガンやエチオピアへでも行ったと思えば、苦ではない。逆に、1日に何十回も余震が起きる状況では、かえって車中で安心したこともあった。)



県道10号線沿いの風景。ボランティア活動のあと、1日だけ折り畳み自転車で町内を走った。漁港のない岩沼では、海辺の集落は少ないようだったが、多くの農地が塩水に浸かってしまっていた。






訪れた家は、どこも高さ1mほど浸水していて、家の片づけ・掃除、ゴミや溜まった泥の除去が主なボランティアの仕事であった。毎朝、ボランティア受付場所に並んで仕事を待つ。日雇い労働者のような具合である。そうして、6~10人程度ごとに依頼者の家に派遣されて活動する。(私の滞在中、ボランティア数は1日170~200人くらい。)
 写真は4/11午後の作業の休憩時間にて。依頼主の佐藤さん(写真右から2人目)は陽気で、自身がケータイで撮った津波の動画などを見せてくれた。多くの依頼者は、自身の被災時の体験を好んで語ってくれた。流し台の上で夜中まで水が引くのを待った話、家畜の死体が大量に流れ着いた話など・・・。1人暮らしのお年寄りも少なくなく、話し相手としてもボランティアは役に立つと思った。



赤い上着で作業するのが私です。(写真提供:宮内健さん



4/12午後に作業をした下野郷学習館。旧玉浦小学校下野郷分校であり、現在は学童保育として、親が共働きの小学生など30名ほどが利用していた。管理人さん(写真中央)によると、震災の日、地震時には生徒が1人残っていて、すぐに帰らせ、自身も津波が来る前に避難したそうだ。築60年になる建物だが、地元では親しまれており、今後も利用する方針だそうだ。

 ボランティアの内訳は、週末では地元の人が目立ったが、徐々に県外からの個人ボランティアが増えて、過半数を占めているのでは、と思うほどであった(グループでくる若者も多いが、単独で来る年配者も目立った)。この日の午前の作業では、6人組のうち、私も含めて5人が県外で、神奈川、群馬県、埼玉県、静岡県、滋賀県から来ていた。(通常は地元の人が担当するリーダーに、活動経験が長かった私が任されてしまう有様だった。)
 依頼者は、「わざわざ遠くから来てありがたいねえ」としきりに感心していた。1回では片付かないので、多くの家は何度もボランティアを頼むことになるのだが、扱いに慣れている家では、缶コーヒーをもてなしてくれたり、「今日はどこの県から来てくれたの?」なんてボランティアとの会話を楽しむ方もいた。

 この頃、県外からボランティアが入りやすくなる一方、受け入れ先の市町村が限られていたため、岩沼市では過剰ぎみになっていたようだ。受付に遅めに並んだボランティアには仕事がない状況も出ていたと聞いた。石巻市で県外からも受付はじめていたので、そちらに移る人もいたようだ。(ボランティアを県内・市内在住に限る市町村は、地元のボランティアが多くてまかなえる場合と、受入れ機関・施設が被害を受けて体制が整わなかったり、交通インフラの復旧が不十分であったり、まだ遺体捜索の段階である場合などが考えられる。おそらく仙台市は前者だろうが、石巻市などは後者だったようだ。石巻では毎日500人のボランティアが活動しているが、それでもまったく足りていないと聞いた。)
 とはいえ、現地を見れば、岩沼でもまだまだ人手が必要なのは明らかである。ボランティアセンターの方でもニーズの掘り起こしに力を入れていくようだった。「ボランティアは被害の大きい地域に行きたがる」という話も聞く。確かに、やりがいを求める気持ちはあるだろう。より必要とされる場所を求めるのは当然だ。私が現地で出会った(個人で現地入りをするような)連中には、しっかりと現地のニーズに合わせて役立ちたいと思っている人が多く、頼もしかった。
 車の移動で渋滞を起こすなど迷惑をかけては本末転倒だが、現地で活動できる人は、準備と覚悟をもって行ってみれば良いと思う。必ず現地の人の力になれる。少なくとも今の岩沼の復旧活動は、県外ボランティアによって支えられていた。私も一過性でない継続的な協力をしていきたいと思う。

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2011/4/10 岩沼市(2)~自動車の残骸


田んぼにある自動車。至る所にで目についた。



状態の良い自動車には、持ち主に移動を促す張り紙が貼られている。




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2011/4/10 亘理町 荒浜


阿武隈川(河口付近)沿い、亘理町側。

亘理町の避難所には、野菜ジュースを持ち込むのに訪れた。今回、持参した物資は、野菜ジュース3箱(1Lペットボトル36本)のみ。(その他、スコップやデッキブラシなど自身がボランティアで用いれる掃除用具は岩沼市ボランティアセンターにそのまま寄贈。)避難所によっては食料は足りているという報道も多く(とくに炭水化物)、とりあえず日持ちする野菜ジュースを集めた。(私の住む近所では「1人1本のみ」という店もあり、急にはたくさん集められなかった。)
また、個人宅で避難している人たちの方がニーズがあるという話もある。私が見た範囲では岩沼の店には物が並んでいたが、車もないお年寄り、小さい子供に手が離せない家庭では、苦労されていると思われた。
 一方、食料を持参した県外ボランティアで「全員に行きわたらない数だと困ってしまう」と断られた話も聞いた。結局、私はmixiで必要な場所を探して、亘理町の佐藤記念体育館(避難所)に辿りついた。問い合わせると、そこでは2,000人弱に食料を配布しているそうで、「食料は何であれ、ありがたく頂いている」そうだ。避難所で話を聞くと、やはりパン類は足りているが、おかずや野菜、カルシウムとなる煮干しなどが求められているそうだ。避難所の運営する側も、時間ととともに変わる個々のニーズを吸い上げ、適切な物資を集めるのに苦労しているのが伝わった。
 隣のボランティアセンターでは、ボランティア数も多そうで、活気がある印象を受けた。(外国人グループが記念撮影をしていた。)

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2011/4/13 石巻市(1)~中央公民館

この日は、知り合いで歯科医師の先生が、避難所でパンダの着ぐるみ姿で歯ブラシやマスク、風船などを配る活動を行うとのことで、急遽、お手伝いも含めて同行させてもらった。
(仙台市と石巻市の間は支援活動の車両で渋滞が起きやすく、迷惑をかけないために行も帰りも早朝・夜間に移動をした。)



石巻中央公民館は、4/14から石原軍団が炊き出しを行った避難所だ。(帰ってから何度もテレビで目にした。) 前日には彼らが用いる特大釜があった(写真後ろ)。(この炊き出しイベントについては全く知らなかったが、当日は大渋滞で地元では迷惑がる人もいたようだったので、訪問日が重ならなくて良かった。)



お年寄り向けに入れ歯グリップなどもあった。パンダ姿だと(相手から必要なもの・困っていること等)本音を聞き出しやすいそうだ。



配布作業は、避難所にいる子供ら自身にも手伝ってもらった。「僕、えらいね。何年生だい?」などとお年寄りが子供に話しかける機会にもなり、避難所内での交流にも大いに役立っていると思った。









やはり、パンダは人気がある。先生は、日頃から子供たちを喜ばせる活動に力を入れている。避難所の子供には一番のプレゼントになるだろう。

※撮影した写真は避難所に郵送しました。
(掲示板にでも貼って頂き、本人の手に渡れば幸いです。)

【2011/4/27追記】
写真は本人たちの手に渡ったと石巻中央公民館から連絡を受けました。
配布でお手数をかけると心配しましたが、とても喜んでくれて良かったです。

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2011/4/13 石巻市(2)~被災地域


中央公民館のパンダ着ぐるみボランティアのあと、歯科医師の先生と石巻の被災地域に立ち寄った。山手から海手の平地に入ると景色が一変した。山手の家々では洗濯物が干されており、(多少の不自由があるにせよ)日常生活が続いている。一方、眼下には瓦礫と化した街の風景が広がっているのだ。まさに津波の到達地点を境に天国と地獄が分かれていた。

 「がんばろう!石巻」の看板が見える(写真奥)。先生によれば、当初は瓦礫が何倍の高さにも積まれて、道路が開通しただけで、大きな進歩なのだという。復興には途方もない道のりだが、前に進むしかない。






丘に上がったままの漁船。漁港では倉庫に残った魚の廃棄作業も行われていた。

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2011/4/13 石巻市(3)~思い出の品


石巻市南浜町1丁目1番地あたりに置かれていた写真アルバム。

 現在、デジカメや携帯電話で誰もが気楽に写真や動画が撮れる。デジタルデータは容易にコピーでき、被災地外のサーバーにバックアップがある人もいるかもしれない。一方、こうしたプリントされた「写真」には、モノとしての存在感の大きさを感ざるを得ない。全てを失い、パソコンもテレビもない中で、手に取れる「写真」が実に貴重に思える気がする。逆に「写真」を失くしたときには、思い出の喪失感も大きいのではないだろうか。



同じ場所にて、カゴの中にあった写真。こうした思い出の品は持ち主に返されることを期待して集められている。実際には、発見場所とは全く違う出所から流されている少なくない。容易ではないだろうが、持ち主の手元に戻ることを切に願う。



付近に置かれていた結婚式のビデオ。

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2011/4/13 女川町(1)~壊滅した平地部

午後は歯科医師の先生が女川町で検死ボランティアがあり、同行した。女川町は、人口約1万人(2011年2月)で、4/18朝日新聞によれば、429人が死亡、約1,070人が行方不明、約2,070人が避難、住宅約3,020棟が全壊している。平地部分は文字通り壊滅していた。(女川中心部の航空写真(Google)



石巻方面から国道398号線(バイパス)で向かい、峠を越えると突然、壊滅した町に出くわす。写真は黄金町・寿町、女川街道(国道398号)。



陸上競技場付近から見た清水町。



陸上競技場付近から見た女川駅・港方面。



列車の車両がいくつか転がっていた。















町立病院から女川浜を望む。ビルの屋上に流れ着いた家屋が乗っている。






電柱は復旧作業で新たに建てたもの。自衛隊の車両はもちろん、電力会社の高所作業車もよく見かけた。



高台の上まで自動車が打ち上げられていて、津波の異常な高さがわかる。



女川港。



地盤沈下で港付近で一部浸水していた。満潮時には要注意である。












カゴに集められた思い出の品。



まだまだ歩くと写真などが見つかる。(近くのカゴに入れることしかできなかった。)



交通のため、すでに道路上の瓦礫は除去されているが、移動してきた船や家屋は残っていた。



半壊した家。電動のエスカレーターがあり、足が不自由な方が住んでいたことが伺える。無事に避難できただろうか。



赤十字のカメラマンが撮影をしていた。



誰かが立てた日の丸。



「がんばっぺ 女川」。この町に再び来ようと強く思った。

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