【2010/7/29 助けてくれたサドゥと少年たち】


騒ぎを聞きつけて助けてくれたのは、集落の端に住むサドゥ(修行僧)のSalander Nathさん(写真右)。



それでも、ちょっかいを出し続ける少年たちには手を焼いたが、小さい子供たちは写真を撮ってあげると満足してくれた。



悪ガキもサドゥをババジイと呼んで慕っていた。

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【2010/7/29 サドゥの住まい】


左は修行小屋。右が住居。



ジャート族のSalander Nathさん(47歳)は、10年前からサドゥ(修行僧)になって、ここに住んでいる。それなりに英語が話せるので、しっかりした教育を受けたようだ。
家には電気が通っていて、隣のテント集落の連中は携帯電話を充電させてもらっている。



電気式のコンロで温かいチャイを2杯もご馳走してくれてた。(彼は「一生立ったままでいる」修行をしているので、しゃがむことはなく、立ったまま作業をする。)

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旅(2011夏)の雑感 ~ 南スーダン

■世界一(?)未発展の国
 今回はウガンダから陸路で南スーダンに入っていた。今年の7月9日に独立したばかりの新しい国である。スーダン(北)との隣接地域は治安が悪く、湿地帯の東部は空路や水路でしか入れない。結局、私は完全に国の統治下にある南部の州を中心に滞在するしかなかった。つまり、比較的アクセスしやすい地域に居たことになるのだが、それでも噂以上にインフラが未発達で驚かされた。アフガン以下だと思う。首都のJubaさえ、幹線道路の一部を除けば未舗装で、州都レベルでは(街ではなく)大きな村という印象だった。首都や州都を結ぶ道路は当然未舗装で、雨季には不通またはランドクルーザーしか通れなかったりする。そのため、陸路の交通費(ランドクルーザー中心)は日本以上に高いくらいで、飛行機を使うのとあまり変わらない。お金のない庶民は何十キロも歩いて移動する。

 産業が極端に乏しく、食料もウガンダやケニア、スーダン(北)など隣国からの輸入に頼りがちだ。主に品物はJubaに集まってから地方に輸送されるため、価格は首都Jubaより地方の方が高い。例えばミネラルウォーターのペットボトルなどは2倍もした。




■外国人労働者の集まる国
 物価が高い分、高給でもあり、首都や州都では周辺国からの出稼ぎ労働者が溢れている。ウガンダ、ケニア、スーダン(北)、エチオピア、中央アフリカ、コンゴ、ルワンダ、ソマリア、エリトリア・・・。出会った人だけでこれだけいる。ウガンダ人、ケニア人が多かった。建設ラッシュでもあり、建設工事の単純労働者も多いが、食堂や市場で店を構えて商売をする者が目立った。建設労働者の賃金はウガンダの5倍にもなるそうで、大学生も夏休みを利用して稼ぎに来ていた。

 外国人労働者と言えば、アジアから日本へ、イスラム国からドバイへ、という風に(一言でいえば)貧しい国から豊かな国へ出稼ぎに行くという印象が強かった。しかし、南スーダンではそれが逆転していて面白い。ウガンダにしろ、ケニアにしろ、南スーダンよりもずっと発達した国々から来ているので、「スーダンは汚い」「生活習慣が野蛮だ」などと見下している人も見られた。(これは田舎の人も多い州都などで聞かれた話で、Jubaでは当てはまらないと思われる。)

■牛とともに生きるディンカ(Dinka)族
 前回のエチオピアのガンベラ(Gambela)州にいたヌエル(Nuer)族(もともとスーダンから移動してきた人々)も同様だが、ディンカ族の牛を中心にした生活にとても魅力を感じた。ディンカ族は南スーダンの最大の部族で、東部や北部の州に多い。農業と放牧を営んでいる。私が訪れたキャトル・キャンプは大きいものではなかったが、それでも数千頭の牛の群れは圧巻であった。彼らは、貴重な生活水である牛の尿で手や食器を洗うし、日頃から灰を体中に塗って暮らす者も少なくない。そんな牛飼いの若者たちも、昼間は学校に通う者も多い。携帯電話を持つ者もいる。
 交通インフラが整えば、町に出て進学する者はさらに増えていくだろう。それでも若者もディンカの文化に高い誇りを持っており、週に数回も行われる、踊りやレスリングの娯楽・行事も若手が中心だった。これらは、農村では今後も受け継がれていくのではないかと期待させた。

 農村では、今でも部族間の争い(主に牛の奪い合い)がある地域も多く、牛飼いはライフルを持参する。田舎では一般人が銃を持ち歩く姿は一般的だった。





■教育を受けていない人々
 内戦当時、親とはぐれて避難した子供たち(ロストボーイズ)が国外の難民キャンプなどで教育を受け、自国に戻ってくる話などは、旅立つ前から知っていた。実際にキャンプで教育を受けられた人はマシなのかもしれない。私が出会った地域では、10代でも20代でも、小学校の4、5年生に在籍する者が目立った。その前までは長い内戦で学校に通えなかったそうだ。
 現地人は、他部族とは主にアラビア語で会話をする。スーダンの国語であり、英語よりは遥かに浸透している。町では周辺国からの外国人も多く、英語もかなり一般的に使われていた。地元の食堂もウガンダ人などの経営が多いため、地元人でも逐一、定食のメニューや値段を(当たり前のようにカタコトの英語で)尋ねている姿は何か滑稽だった。一見、私からすると同じような顔をしたアフリカ人の田舎の村に過ぎないのだが、実は様々なエスニック集団が入り混じる多国籍社会なのだ。

 警察官の教育レベルもまちまちで、理由も分からぬまま警察に拘束されることもあった。ひどい時には「お前は(白人だから)お金をたくさん持っているはずだ。だから逮捕だ」「カメラを持っているから逮捕だ」と監禁される。結局、英語を話せる上官に連絡を取ってもらい、電話で直接説明すると「南スーダンへようこそ!」と言ってくれ、解放されることになる。賄賂を要求されたことは一度だけあった。

■Jubaの病院
 毎度ながら、今回も旅の終わりに病気になった。しかし旅行とはあまり関係のない尿路結石というものだ。南スーダンの病院では全く理解されなかったが、実は以前にもなったことがあるため、自分で判断して対処した。あまりの激痛のため入院までしたが、国で最大らしいJuba (Teaching) Hospital でも医療用品が足りないらしく、体温計もないのか医師が手を額に当てて熱の有無を確かめ、注射器から点滴用品、すべての薬を自分で薬局で買って持ち込むしかなかった。当然、カルテ等は医師の手書き。患者は多く、とても忙しい中、実に大変そうであった。
 一日に1、2回、痛みが出たが、Jubaではダメだと、数日早めてKampala(ウガンダの首都)に移動した。そして、着いた直後にUSドルをすべて失う盗難に遭う。今までの旅で経験のない大失態である。(目撃者があり犯人グループの一人が逮捕されたがお金は戻ってこなかった。事件の捜査が進行中のまま、私は帰国した。)


■日程
・ 7/25 - 8/25 南スーダン、ウガンダ
(主な訪問都市:Juba,Bor,Yambio,Kampala )




Posted at 2011/09/02 12:00 | 雑記 | COM(4) | TB(0) |

【2010/7/29 楽器を奏でるサドゥ】


彼はサドゥとしての修行の他、結婚式などで楽器を演奏して、お布施をもらうそうだ。
(あくまで金でなく、食物をもらうと言っていた。)
 写真は、アコーディオンのような楽器ハルモニウム。左手で蓋を動かすと蛇腹に空気が入り、弾くと音が鳴る。



太鼓(タブラ)をたたくSalander Nathさん。

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【2010/7/29 立ったまま寝るサドゥ】


Salander Nathさん(47歳)の修行は、一生立ち続けること。トイレはもちろん、寝るときだった立っている。
 部屋にあるベッドは不可解であるが(写真)、サドゥになった10年前から座っていないそうだ。
(集落の人たちも、座ったのを見たことがないと言っていた。)



住まい隣の修行小屋には、ひじ掛け用の板が吊るしてあり、夜はここで寝る。



サドゥになって家族や昔の友人とは縁を絶ったそうだ。「神だけに寄り添っている」と真っ直ぐな眼差しで言っていた。サドゥ仲間と連絡を取るために携帯電話はもっている。

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【2010/7/30 Jhunjhunu郊外の労働者テント集落(1)】

前日、最後にパンクしながらも何とかJhunjhunuに到着。この地方都市には大きなバスターミナルもあった。ネットカフェもあり、この旅で初めて利用した。夜にはゴミ拾いの少年少女が目立ったのも「都市」らしい雰囲気があった。翌朝、情報収集だけ済ませて街を発った。


街の外れにテント集落を見つけた。



ここでは珍しく愛嬌のある女の子。



彼らは期間労働者で、一か月ここに滞在しているそうだ。遊牧民との一番の違いは、移動用に荷馬車でなくトラクターが目立った。

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【2010/7/30 Jhunjhunu郊外の労働者テント集落(2)】


ここで町が終わり、先には砂利道が続く。彼らは、その舗装工事で雇われている労働者たちだ。近くのセメント工場で働くものもいるそうだ。彼らの日当は100~150Rs(約300円)ととても低い。



先の子と同じ服の少女。



私の周りに人だかりが出来ていると、ネクタイ姿の営業マンがやってきた。
私にブラシを売ろうとしたらしい。

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