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2010/4/14 「青い服の少女」への手紙渡し

現地からの報告「旅だより~ 2010/4/14 『青い服の少女』への手紙渡し」の続きです。


レンガ工場の場所は「Gharshin Stop」というバス停名が唯一の手がかりであった。とはいえ、前回はイスラマバード(というかRawal Pindi)から2、3日かけて自転車で訪れている。GT Road(バングラデシュのダッカからペシャワールを結ぶ街道。地元の人によれば、さらにロンドンまで繋がっているらしい…)沿いにあることも分かっているし、付近の様子も覚えている。ただ、バスステーションでバス停の名を訊いても、知っている人が少なかった。無名の停留所であることは確かなようだ。
結局、GT Road経由でRawal Pindiへ行くバスに乗った。(料金は200Rs(約212円)とられた。モーターウェイM1を通るRawal Pindi行きのバスは150Rs程度であることは知っていたので割高だと気づいた。タクシーや宿とは違い、公共のバス内では皆の目があるためボられることは稀だ。そう思って黙って支払った。が、実はあとで100Rs程度だったことが帰路で分かった。久しぶりに騙された。)
途中のNowsheraでは、去年私が自転車旅行を中断した原因となったテロ現場のモスクがあった(関連記事)。6、7割が倒壊し、廃墟になっていた。案の定、Nowsharaでは検問そして迂回で数kmを抜けるのに40分かかった。到着したのは昼過ぎで3時間もかかった。(M1経由ならRawalPindiまで2時間で着く。)
運転手に声を掛けられ、懐かしい風景に「ここだ!」と言って降ろしてもらった。Gharshin Stopで降りた人は私だけだった。あらためて見ると、レンガ工場の煙突以外はほとんど建物が見当たらない田舎である。

思い出の地へ再び戻ることは嬉しいものだ。1人で笑みがこぼれていた。
バス停の売店は人もなく、煉瓦を積んでいる男たちに声を掛けた。見覚えのある男性が1人いて抱擁の挨拶を交わした。売店の主だ(関連記事)。(前回に続いて店のペプシをごちそうしてくれた。)
誰も英語は話せそうにない。「青い服の少女」の写真を見せながら、カタコトの現地語で「日本からの訪問者で、10ヶ月前に来たとき、この写真を撮った。名前は知らないけど、この子はどこにいる?」と尋ねた。(ここはパンジャブ州だが彼らの母語がパシュトゥン語で助かった。私はウルドゥ語は全く話せない。)
皆、口々に「Mualim」「Mualim」という。彼女の名かと思っていたら、実は父親の名だった。(彼らも彼女の名は知らない。イスラム社会では父親の名が重要だ。人と会うたびに、自分の名とともに「父の名は?」と尋ねられるのが日本人の私には滑稽だった。)
売店でしばらく待つと、「青い服の少女」が連れてこられた。



彼女の名はKhastalala(ハスタララ)、7歳。この日は黄色い服を着ていた。この10ヶ月で見違えるほど大きくなっていた。背も10cmくらい伸びた印象だ。
大人たちの「どこで撮ったか」という質問に「煙突の裏」と答えていたようなので、私のことは多少覚えているようだった。それでも、とても恥ずかしがり屋の彼女は、連れてこられても直ぐに逃げてしまい、カメラを向けるどころか手紙を渡すのも簡単ではなかった。

 

彼女も含め、村の子供たちは学校へは行かず、小さなモスクでコーラン暗唱を通じてイスラムを学んでいる。訪れてみると、(カメラを見るとすぐに写りたがる)街の男の子とは違い、笑顔はくれるのにカメラを向けると、顔を背けてコーランを真顔で読み出すという純粋な子たちだった。見学を許可してくれたムッラー(先生)も自身の撮影は拒んだ。

 


 

写真の柱の手前が男子、奥が女子と場所が決まっているようだった。Khastalalaは私をチラチラと気にしつつ、コーランを読んでいた(写真中央上)。

 

写真右は、レンガ工場の取引先のAziz Gulさん。珍しくE-mailアドレスを持っていたため、彼らの状況を尋ねる連絡役をお願いした。(カタコトの英語だが、私が口頭でお願いしたことを「すべて理解できないから書いてくれ」と言い、真面目な人だった。内容は紙に記して渡した。)

 

レンガ工場の経営者Hamidさんが英語を話せ、忙しい中、通訳をお願いした。
まず、Khastalalaの父Mualimさん(60歳、写真左)を連れてきてもらい、彼に事情を話した。ようやく理解をしてもらって、Khastalalaを連れてきてもらった。
ここで驚いたのは、息子も含めMualimさんの家族は全員字が読めなかった。(アフガニスタンのクチ(遊牧民)であった彼らは、30年前(ソ連侵攻時)にジャララバードからパキスタンに避難してきた経緯がある。パキスタンの公用語ウルドゥ語も不自由だが、この一帯は同じくパシュトゥン語を母語とする人々が住んでいるので問題ない。)
現地語で書かれた日本からの手紙も彼らは理解できず、Hamidさんが読み聞かせてくれた。

 

彼女が手にしているのは、日本の4歳の女の子からの手紙。「青い服の少女」に興味を持ってくれ、まだ字が書けないので絵を描いてくれた。

 

彼女へは3組から手紙があった。訳が分からないであろうKhastalalaだったが、「日本の友人たちが、この写真のKhastalalaに興味を持って手紙をくれた」と説明すると、照れつつも喜んでくれた。

 

Mualimさんに家を案内してもらった。レンガ工場の側にある数軒の集落で、いずれも泥でできた簡素な家だ。
アフガンのクチ(遊牧民)からパキスタンに逃れ、レンガ造りの職人として定住した人々である。
写真中央でポーズを取るのは、Khastalalaの兄Rahim Ullah君(12歳)。前回訪問時も撮っている(関連記事1関連記事2)。

 

(写真は再掲載) 3つの部屋の一つ、Khastalalaら子供たちが寝る部屋。擦り切れた敷物があったが土間同様に使われている。7人兄弟で5人の兄、妹が1人がいる。 三男Saf Khan Ullah君(14歳、写真左)は次男Aman Ullah君(16歳、左から2人目)より背が高い。

 

渡した手紙とKhastalalaを撮っているとき、彼女を叱って強引に連れて帰った長男のUsmanさん(25歳、写真左)。父が許しても、兄として妹を撮られることを嫌がったのだろう。その後、だいぶ打ち解けたところで本人の写真を撮らせてくれた。

レンガ造り職人は厳しい肉体労働ではあるが(関連記事1関連記事2)、父Mualimさんは週に5,000Rs(約5,300円)を稼ぐ。これは予想外に悪くない給料だ。長男をはじめ次男(16歳)、三男(14歳)までも父と同じレンガ工場で既に働いている。この村の男には他の選択肢は眼中にないようだ。仕事はタフだが、それは当たり前だと思っているし、生活するには十分な報酬がある。
学校にも行かず、読み書きもできないが、さして不自由は感じていない。連絡・情報収集には携帯電話の方が役立つのかもしれない。
工場の経営者Hamidさんによれば、「公立学校の費用は高くはなく、彼らは貧しくて学校に行けない訳ではない。単に必要ないと思っていて学校には行かせたがらない」のだそうだ。モスクでコーランを最後まで学べば、読み書きはできるようになるらしいので、Mualimさんの息子らは最後までは学んでいないのだろう。

一般に、遊牧民はその暮らしぶりは質素だが、経済的には決して貧しいわけではない。家畜は高価なものであり、彼らの相当な財産を蓄えていることになる。何世代にも渡って営まれて来たであろう遊牧と違って、レンガ工場は30年、50年先も同じ高額な報酬を払えるとは限らない。そのとき、また一族は試練を迎えるのだろうか。

 

Khastalalaの妹Sale Khaちゃん(2~3歳)。とても愛嬌があって和んだ。

 

長男Usmanさんと親しくなった上で、ようやくKhastalalaを撮影できるようになった。



隣の家のShawazirさん(27歳)の家族ら。父はいず(病気?)、彼が大黒柱だ。一族はアフガンのジャララバード出身でやはり遊牧民からレンガ造り職人になっている。彼自身8人も子供がいるそうだ。言葉が通じず、詳しいことは聞けなかった。写真右下で敬礼をする少年は、前回訪問時も撮っているBasir Khan君(6歳)。

 
 



Shawazirさんの妹Hastabibi、10歳。



Shawazirさんの姪Taiba、11歳。2人とも昼にモスクへ訪れた時に私と会っていたそうだ。

 

私の帰り際に再会したNaeel(Nail?)Khan君(8歳、写真左)。モスクで見かけたときにKhastalalaにそっくりだと思っていたら、やはり兄弟であった。

 

日が暮れてもレンガ工場で稼動していた。

もう1人のフレンドリーポストカード「煉瓦工場の男」は不在で再会できなかったが、彼の名(Azamさん)だけは確認できた。

※ 今後、還元金の使途(関連記事)はもちろん、「煉瓦工場の男」についてもAziz gulさんから情報を提供してもらう予定です。




  
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