2009/6/29 アフガンのハザラ人(シーア派)


8/30撮影。昼にマザリシャリフに到着。カブールからのバスで親しくなったFarshidさん(写真左)の家に一泊することになった。Sayed Abad(ハザラ人(シーア派)が多い地区)にあり、家の入口(写真右側)のみ1階であとは半地下になっている。屋内は夏でも涼しかった。
ハザラ人以外の多くはスンニ派であり、Sayed Abadにはそれぞれのモスクが建っている。部外者には分かりにくいが別のコミュニティを形成しているそうだ。写真右は兄のMuhammadさん(韓国の建設会社でブルドーザの運転手をしている。息子が2人)。



8/30撮影。Farshidさん(30歳)の一家はイラン出身のハザラ人で30年前にアフガンに移って来た。(彼自身はイランで教育を受けていたのでアフガンに来たのはわずか2ヶ月前。)カブールには就職活動で訪れていたそうだ。写真右は姪のNedaさん。



Farshidさんの従兄弟(写真右から2人目)と友人が働く建設会社にて。英語が上手な友人(左から2人目)は失業中で「ハザラ人はコネが少なく、仕事がなかなか見つからない」と言っていた。アフガンでハザラ人の地位は低い。貧しい山岳地域に多く居住している。Farshidさん自身も「ここでは見つからないので、カブールかバーミヤンで探している」そうだ。バーミヤンはハザラ人の本拠地で仕事が見つけやすいらしい。



8/30撮影。出勤するのにチャダリを被る、Farshidさんの妹Nargesさん(25歳、銀行勤務)。ここの家族はイラン(シーア派)のムスリムであり、女性隔離などの面で寛容であった。女性たちも含めて家族全員と私も一緒に食事をしたり、家族団らんをできた。年配の母や姉妹も普通に写真を撮らせてくれた。(ここでは大人の女性の顔写真は公開しない。)

この日以降、(何者かが知れない薄気味悪さを感じてしまいがちな)チャダリ女性を見ても、Nargesさんのように笑顔が素敵でオシャレな女性かもしれない、と思えるようになった。



8/30撮影。私もチャダリを着させてもらった。頭まですっぽり被ると視界が狭く、息苦しい。足元が見えず、慣れないと歩くのも楽でなかった。



私の自転車に乗ってケータイで記念写真を撮る女の子たち(下の妹Raziehさん(10年生)とそのクラスメートのMaryamさん)。

2009/6/29 マザリシャリフのブルーモスク(1)


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8/30撮影。FarshidさんにSakhi(シーア派の聖人アリの墳墓)へ連れて行かれた。これが、写真で見たことのある有名なブルーモスクであることを帰国後に知った。(アフガンの本はかなり読んだが観光情報にはウトイのだった・・・。)



涼しくなる夕暮れには多くの人で賑わう。地元の人もデジカメやケータイで写真を撮るので、自由にカメラを向けることができた。とても平和な雰囲気だった。ただ、裕福な家族がレジャー気分で楽しんでいる傍らで、寄ってくる物乞いを管理人らが追い払う姿も見かけた。



8/30撮影。大きなカメラを首から提げてうろうろしていると、「写真を撮ってくれ。いくら?」と現地カメラマンに何度も間違えられた。(このハトが集まるエリアには記念撮影で稼ぐカメラマンがけっこういる。そして、ハザラ人はモンゴロイドの顔と似ているため、洋服が普通に着られている大都市では日本人も彼らに溶け込んでしまうのだ。)









8/30撮影。轟音とともにハトが一斉に飛び立った。ヘリが低空飛行で近づいてきたのだ。



8/30撮影。何事かと思うほど近くで暫らく旋回していた。



8/30撮影。



8/30撮影。



8/30撮影。



8/30撮影。

2009/6/30 Sakhi周辺の商店


行きは荷運び、帰りは人運び。手押し車に小さい子供を乗せる光景はよく見かけたが、ここでは仕事仲間を互いに乗せ合っていた。



干し椎茸(?)売りのKailunさん(写真右)と子供たち。



リサイクル業を営むZahirさん(写真右)。少し英語が話せた義理の弟Omadさん(18歳、写真左)によると、空き缶を1kgあたり20Af(US$0.4)で買い取っているそうだ。事業を手広くやっているようで、なんと月収US$20,000なのだそうだ。(信じられいほどの高収入で、外車を乗り回しているそうだ。ちなみにタクシードライバでも月収がUS$1000になると言われたが、大都市の相場だろう。)



Zahirさんはボディビルやボクシング等もやっていたそうだ。



電気屋を営むLateefさん。英語が話せ、情報収集に付き合ってもらったりと何かとお世話になった。足元にあるのはケータイ充電器で、10Af(US$0.2)でバッテリーを充電するサービスをしている。需要はかなりあるようだ。その他、パソコンのハードディスクのスキャンディスクやデータ吸い上げまで、何でも路上で行われていた。



Lateefさんの電気屋の前にて。

2009/6/30 両足のない物乞い


Sakhi近くで物乞いをするHaron君(15歳)。Lateefさんに通訳をしてもらい話をした。彼によれば、9年前にタリバンの爆弾で負傷し両足を失った。母は病気で、父は服役中だそうだ。



カブール同様、マザリシャリフには物乞いが多い。その中で両足の無いHaron君は抜群に目立つ。スピーカーを使って「アッラー、アッラー・・・」とかすれた声を張り上げ、道行く人にアピールする。同情を引くかのように辛そうな表情で・・・。



物乞いの中で、障害者や乳幼児を抱えた物乞いは金を多く稼げる。そのことを彼も意識をしていた。実際に1日200Af(US$4)くらいになるそうで、「これだけ稼げれば十分に暮らしていける。」と教えてくれた。そういえば、Haron君には物乞いにありがちな異臭も無く、健康的にさえ見えた。もちろん、両手で這って歩く不自由な生活だが、それを利用して生きる逞しさを感じた。
(翌日、この笑顔の写真をあげたら喜んでくれて、私が通るたびに挨拶をしてくれた。)
関連記事「2009/7/5 両足のない物乞いとの再会」

2009/7/1 お湯屋のAbdullaさん


マザリシャリフ中心部にある安宿(1泊300Af(US$6))からSakhi方面を望む。道路中央には英雄マスードの写真看板がある。



宿はわりとキレイだったが、屋上にある共同シャワー室には如雨露(ジョウロ)が置いてあるだけ。近くのドラム缶から水を汲んできて手・足・顔・髪だけを洗った。(こういう場面が多いので旅行中は短髪にかぎる。)



路上で自転車修理屋・お湯屋をするAbdullaさんのところには、いつもハザラ人のトッラク運転手たちが集まってくる。Abdullaさんの息子(写真左端)にチューブ交換をお願いした。(前日に他の場所でパンク修理をしてもらったが、一晩で空気が抜けていた・・・。この一週間で数箇所も穴が開いたので、持参したチューブを使うことにした。)



英語が少し話せるイラン出身のAliさん(写真中央)とAbdullaさん(写真右)。昼飯にシュルワ(ちぎったパンを入れて食べる肉スープ。食堂にはない、庶民の一般的な食事)を頂いた。



7/6撮影。Abdullaさんとサモワール(湯沸かし釜)。飲料用などに湯を売っている。1日500Af(US$10)くらい稼げるそうだ。

2009/7/1 マザリシャリフから自転車旅行へ


治安が良いと聞いて訪れたマザリシャリフ。隣州の州都Sheberghanまで自転車で旅することにした。(この荷台のリュックに、カメラ関連やプリンタ一式、予備チューブ・空気入れ、寝袋・サンダルまで詰まっている。衣服は替え下着・靴下が1セットのみである・・・。)



道端に放置されているタンク(戦車)。アフガンではありふれた光景だ。(初めは物珍しくて撮っていたが、次第に状態の良いもの以外は素通りするようになった。)



街のゴミを捨てに来たMuhammad Laさん。(アフリカなどでも目立ったが、ゴミは焼却するでも埋めるわけでも無く、街や野原に捨て放題。プラスチックなど土に返らない工業製品が多くなっている現代では負の遺産としてずっと残ってしまうのだろう。)



彼としては仕事を全うしているだけ。肉体労働者の爽やかな笑顔で去っていった。



しばらく並走した男性。彼によるとこの一帯は歴史のある場所で古い住居が残っているそうだ。






詳細は不明だが、カライザーニ(大きな壁)と地元の人が呼んでいた旧城(タフタプル)跡。現在では城壁を道路が突っ切っている。

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山羊飼いのFaindaさん。70頭ほどいた。






荒地を耕す男たち。



2009/7/1 Muimbaraka村の子供たち


村の農家の子供たち。



ひょうきんなFawad君(12歳、写真右)。










洗車で生活費を稼ぐ子供たち。学校には行っていない。農村では不登校の子供とハッシーシ(大麻)を吸う大人をよく見かけた。



英語が話せる大学生のAbdul Aziz君(写真後列左端)によると、村の人口は606人で2週間前に調査したばかりだそうだ。8月の大統領選に触れ、「政治をするアフガン人に良い人はいない。私服を肥やすだけで皆ウソつきだ。外国人が大統領になった方が良い」と言い切った。(長らく話し込んでしまい、日が沈みかけてきた。この村で泊まる場所を探そうとした矢先、「仲間とバレーボールのゲームがあるから」と言ってAziz君は去って行ってしまった。)