2011/4/13 女川町(2)~検死ボランティア


知り合いの歯科医師の検死ボランティアに同行した。ご遺体の身元確認には歯型が有効な手掛かりになる。歯科医師が検死したものと、生前のカルテを照合するのだ。先生方は、ご遺体の歯型を記録・確認するボランティアを行っている。

※先生が、初めて検死経験する歯科医師用の検死マニュアルを作成中で 、それに協力する形での撮影です。事前に県警・現場の方の許可を得ています。(ご遺体や検死作業そのものは撮影不可)



硬直した口を開ける器具(写真)などを用いて、2~3人のチームで行われている。経験のある先生は、一体5分くらいで終わるそうだ。もちろん、ご遺体の損傷具合では、ずっと時間を要する。

 こうした検死ボランティアに参加する歯科医師は、ごく一部なのだそうだ。本来「生きているか死んでいるかの違いで歯科医師ならば誰でも検死の技術はある」そうだが、多くの人はやりたがらないようだ。(「遺体を扱った同じ手で治療を受けたくない」という一般患者もおり、そうした配慮から、検死ボランティアの辞退、または参加をしても公言しない医師もいる。)
 そして、現地の多くの歯科医師自身も被災者であり、多大な被害を受けた医院の復旧などで、とても検死ボランティアに手が回らないというのが実情だ。県外からの応援も多い。



現場で知り合った宮城県歯科医師会の入野田昌史先生(写真)に色々とお話を伺うことができた。(ここでの内容は、あくまで先生個人の意見として掲載許可を得ている。)
 平成19年に同会の検死マニュアルが作成されていたが、実際に運用してみると、まだまだ現実に即さないこともあったそうだ。多くの歯科医師は、今回の震災が検死の初体験である。経験があっても、例えば、ある部屋で変死体が見つかり、おそらく住人だろうが、一応確認のために歯型を照合させるという程度のものだと言う。今回のように、全く誰だか分からないご遺体の身元を確定させる検死は珍しいのだ。(さらに、遠方から流れ着いたご遺体も多く、膨大な数を照合しなければならない。)
 また、検死を行う歯科医師不足のため、県外からも応援に来てくれているのだが、記録方法の細かいルールが異なることがあり、生前のカルテとの照合をさらに難しくさせているそうだ。「こんな非常事態は一生に一度で、もう二度と経験しないで済めば良いのだが・・・」という本音も漏らしつつ、全国的な検死マニュアルを整備しておく必要があると言っていた。

 県歯科医師会の入野田先生らのチームは、検視ボランティアの他にも積極的に歯科的支援活動を行っている。同チームの先生の活動報告の手記を拝見したのだが、例えば「4月17日、手付かずと言われる、牡鹿半島全域の調査」では、「想像以上に自衛隊が物資を搬入して下さり、口腔ケアグッズなどは充分であった」そうで「要望された口腔ケアグッズは、入れ歯ケース・入れ歯洗浄剤・義歯安定剤・など過疎化地区ならではの高齢者向け用品」だったと言う。本来、総合的に情報収集するであろう自治体が機能せず、避難所のニーズを独自調査しなければならない苦労が伝わる。
 また、こうした視察で現地に入っても「治療行為は周辺歯科医院への営業妨害になるので避ける」場合も多いという。歯科医院は日頃から地元と結びつき・縄張りが強いのだろう。(地元の学校の担当歯科医などは尚更だろうが、)逆に言うと、こうした非常時には、地域内の避難所のニーズを地元の歯科医師が積極的にカバーしてくれると、期待される。ところが、歯科医師自身が犠牲になったり、被災者となっている実情では必ずしも上手く機能していない、という印象も持った。

 自治体単位の歯科医師会でも、日頃から積極的に活動している医師会は、こうした非常時にも活発である。そうでない医師会の歯科医師は動きが鈍くなってしまう。(私の知り合いの先生が所属する歯科医師会は活発なようで、実に勢力的に支援活動を行っている。) 地域ごと・避難所ごとで生まれる援助格差は、こうした所から来るのだと思われた。

 とにかく、県外からの支援も含め、手探りで現実に対峙して活動をされている歯科医師の方々には感銘を受ける。こうした活動は進行形であり、今日も明日も行われている。






妻が行方不明である男性と、その息子。歯型の検死だけでなく、DNA鑑定についての説明も受けていた。



行方不明者・死亡届の受付場所の近くに、身元不明のご遺体の一覧が張り出されている。いつ、どこで発見されたか、身に付けていた衣服など、細かい情報が書き込まれていた。身内に行方不明者を持つ人たちが、一人ひとりの情報に目をやっていた。そもそも津波被害では、他の地域から流れ着いたご遺体もある。身元確認の難しさ、そして重要さを改めて感じた。

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2011/4/13 女川町(3)~女川総合体育館


検死のあと、すぐに先生はパンダの着ぐるみでボランティア活動を始めた。こちらも同じくらい素晴らしい活動だと思う。



やっぱり目立つ。パンダが現れると、みんな注目!






もらった風船を空気入れで膨らませる女の子。



「中に人が入っているよ~」と楽しそうに中を覗き込む。






避難所の玄関付近には「少年ジャンプ」らマンガも置かれていた(写真後ろ)。臨時の無料電話はもちろん、パソコンも設置されている。(ゲームを楽しむ子供が集まっていた。「1人20分まで」と張り紙も。)




※撮影した写真は避難所に郵送しました。
(掲示板にでも貼って頂き、本人の手に渡れば幸いです。)

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2011/4/13 女川町(4)~パンダに喜ぶ子供、それを見て安心する大人


やっぱり子供の笑顔は見ていて気分が良い。



そして、子供の笑顔を見てほっとする大人の表情も好きである。



今回の被災地で撮った中で一番好きな写真。女の子をパンダと握手をさせ、喜ぶ孫を見て嬉しそうなお祖母ちゃん。(シャッターを切った時、私が目で追っていたのは祖母の表情。)

※撮影した写真は避難所に郵送しました。
(掲示板にでも貼って頂き、本人の手に渡れば幸いです。)

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2011/4/13 石巻市(4)~夜の明かり


(女川から仙台方面への帰り道。渋滞の迷惑にならないように夜に移動した。)
国道398号線沿い、石巻駅から東へ1kmほどにある湊小学校。石巻漁港から1.5km内陸にあるが、周囲は津波被害で瓦礫が多く、夜は真っ暗である。(街灯や信号は一部でついている。)
 そんな暗い町で、明かりが灯る場所があると、たいていは小学校などの避難所である。人の気配を感じて安心できる瞬間でもあった。



湊小学校前。

 私は翌日4/14夜に帰り、神奈川県で日常生活に戻っている。この時期は計画停電もなく、いつも通りの日々だ。私が被災地に滞在したのは1週間足らずだったが、彼らにとっては今後も長く続いていく。阪神大震災のあと、地下鉄サリン事件で被災地の報道が消えてしまったような、風化現象を起こしてはならない。今後、さらに関心を持ち続けさせる努力が必要なのだと感じている。

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2011/5/13 避難所からの手紙

 前略
 桜の花も風に舞い心地よい季節となってまいりました。
 本日体育館の二階で我が家の孫たちがほほえんでいるのを見つけました。
 とてもうれしくなり筆をとらせていただきました。
 二人は今回の津波で母親を亡くしてしまいました。
 なかなか親の死というものを理解するというのはむずかしいと思いますが、
 この写真に様な素敵な笑顔の大人に成長できるように、見守っていきたいと思います。
 本当に"ステキ"な写真ありがとうございました。
 お礼迄に


1枚の葉書が届いた。
差出人の住所は、「宮城県・・・女川総合体育館内」。避難所暮らしの女性からだ。

先月、歯科医師の先生の検死ボランティアに同行して訪れた避難所である。
カテゴリ「東日本大震災(ボランティア活動)」
その写真は、パンダ着ぐるみで子供を喜ばす先生の活動を撮影したときの写真の一つ。
神奈川の自宅に帰った後、「子供たち本人に届けば・・・」と避難所宛に郵送していた。

名前も分からない子供たちの写真なので、皆が見る掲示板のような所に貼り出されていたのだろう。その写真を差出人である祖母が目にしたようだ。わざわざ、お礼の手紙を頂き、撮影者としてこれほど嬉しいことはない。こちらこそ、本当に感謝の気持ちでいっぱいだ。

文中の「孫たち」は、はっきりとは特定できないが、撮った写真は多くないので、見当がつく。(「2011/4/13 女川町(3)」、「2011/4/13 女川町(4)」のうちの1枚)

あらためてその写真を眺めてみる。
本当に無邪気な笑顔だ。そのときは、深く考える余裕もなく子供たちに喜んでもらおうと精一杯、写真を撮った。(実際、歯科医師の先生がパンダ着ぐるみで活動するのを、私はわずかにお手伝いしただけだ。) この子たちに限らず、避難所で出会った子供たちは、近親者を亡くした者も少なくなかっただろう。

この祖母は孫たちの成長を見守っていきたいと綴っている。私は通りすがりのカメラマンに過ぎないが、通りすがりのカメラマンなりに彼女らに関われたのかな、と思う。私が途上国の田舎で撮って配るのも同様のつもりだが、やはり写真はこうあるべきだと思えるのだ。




2012/6/10 「ガガさんのカップ落札、歯科医の思い」

2012年6月10日17時半からTBSで流れたニュースより
『ガガさんのカップ落札、歯科医の思い』


 この歯科医師さんは知り合いで、震災後の検死などのボランティア活動にも同行させてもらった方です。(カテゴリ「東日本大震災(ボランティア活動)」の後半を参照)

 私が撮影した写真をニュース等で使うので、事前に色々と聞いていました。徐々に人々の関心が薄れていくなか、何にせよ、被災地に興味を引かせたい意気込みを感じます。彼自身も被災者ですが、彼は友人と一緒に継続的に様々な支援活動を行ってきました。(私が同行したボランティア活動はごくごく一部です)

 動画中でもありますが、もともと彼はレディー・ガガのファンではありません。もし単なるファンが落札したら、そこで話題は終わってしまう。東北の被災者が落札し、ガガのカップが被災地に来ることで話題をつくれる、という思いなのです。実際に、とくに東北のメディアでは反響が大きく、多くの取材を受けているようです。

 オークションで結果的に600万円という高額で落札したことに賛否があろうことも、彼は予想していましたが「やらぬ善よりやる偽善」だと言っていました。きっと、大勢の人が共感できると私は思っています。
 彼の言う通り、今後イベント等にカップを貸し出すことで、ガガのファンや多くの人が震災や被災地を思い出すきっかけになることを願ってやみません。



2013/2/22追記

弓さんは、特発性肺線維症のため2013年2月21日に亡くなりました。
心よりご冥福をお祈りいたします。(関連記事「弓 哲玖さん、さようなら。。。」


弓 哲玖さん、さようなら。。。

昨日2013年2月21日、テレビなどでニュースにもなっていましたが、宮城県の歯科医師 弓 哲玖さんが亡くなりました。震災後、遺体安置所での検死活動、避難所の着ぐるみボランティアに同行させて頂きました。日頃からの地道な活動や、他者への愛があふれる真摯な態度・考え方にとても感銘を受け、本当に尊敬できる方でした。

心よりご冥福をお祈り致します。


肺の難病で入院し、mixiの書込みが10日ほど前からなく、気になっていたところ、一昨日、レディ・ガガさんのティーカップ寄贈のニュース。そして昨日の訃報。54歳の若さで残念でなりません。

上の掲載写真は、弓さんを撮ったものを見直していて出てきたもの。私にとって大切な大切な一枚になりました。(2011年4月、女川総合体育館にてパンダの着ぐるみでの活動を終えたところ) もう弓先生の笑顔が見られず、さみしがっている友人や先生の患者さんが大勢います。もちろん私もその一人です。

昨日、弓さんの訃報にあたって本ブログにコメントをして下さった方の意見
 『神様は美しい者を手元に置きたくなるものだ』
まったく同感です。


「震災を風化させない」という先生の遺志を一人でも多くに伝えられたら幸いです。

ガガさんのカップ寄贈翌日 落札の男性歯科医死去
米国の人気歌手レディー・ガガさんが直筆した復興支援メッセージ入りのカップを20日に宮城県へ寄贈した宮城県大崎市の歯科医、弓哲玖(あきひさ)さん(54)が21日朝、特発性肺線維症のため、同市の病院で死去した。
 前日、弓さんの代わりにカップを宮城県庁へ届けた妹の張琴さんは「兄の最期はほほえんでいました。ティーカップを県に届けてホッとしたのでしょう」と話した。
 張さんによると、弓さんは東日本大震災後の2011年8月に発症し、ことし1月、大崎市民病院に入院した。10日に再入院し、重篤な状態だったという。カップ寄贈は、張さんが呼吸器を付けた弓さんに意思を尋ね、指で出したオーケーサインを見て、決めた。
 カップは昨年5月の復興支援チャリティーオークションで、弓さんが約600万円で落札した。弓さんは「震災以外の目的で使われたくない」と話し、普段は金融機関の貸金庫に保管していた。
 弓さんは震災直後、宮城県内の被災地に入り、ボランティアで遺体の検視作業や被災者の歯の治療に当たった。着ぐるみ姿で子どもたちを慰問することもあったという。
 村井嘉浩知事は「故人の遺志を受け止め、カップは一人でも多くの被災者を励ませるよう使いたい」との談話を出した。

2013年02月22日金曜日






検視活動の携わる弓先生。(写真左。2011年4月、女川)


レディ・ガガさんのティーカップを手に。弓さんの友人たちの集まりにて。
(2012年7月、東京)

関連記事「2012/6/10 「ガガさんのカップ落札、歯科医の思い」」

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